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世羅町指定重要文化財 (美術工芸品/工芸品)
太刀
昭和59年(1984)5月15日指定
江戸時代末に書かれた「備後古跡志」には、文治元年(1185)の屋島の戦いに敗れた平家の武将である平教溢(たいらののりみつ)が6人の家臣と共に現在の兵庫県室津に流れ着き、そこから陸路備後国に入り、平家領であった大田庄の一角、現在の世羅町小谷に逃れてきたということが記載されている。井原八幡神社の記録には「野太刀」として、平教溢(たいらののりみつ)が、小谷に着いた年に奉納したと伝えられている。
錆身のため、地刃の状態は不明だが、刃渡り94cm、全長139.5cm。南北朝時代以降の作と推定されるが、町内で刃渡り三尺(約93cm)を超す太刀は他に例がない。付属する黒漆塗り刀鞘(かたなざや)は江戸時代の作である。柄鞘(つかざや)については、室町時代以前の可能性も言われている。